特許の実施可能性と要件を満たす明細書の書き方

特許出願において実施可能性要件は権利取得の成否を左右する重要な要素です。明細書の記載が不十分だと特許が無効になるリスクがあります。あなたの特許は実施可能性の要件を本当に満たしていますか?

特許の実施可能性と要件

特許の実施可能性要件の基本
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法的根拠

特許法36条4項1号に規定される要件で、当業者が発明を実施できる程度の明確かつ十分な記載が求められます。

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違反の効果

実施可能要件違反は拒絶理由、無効理由となり、権利行使が制限される可能性があります。

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審査のポイント

当業者が過度の試行錯誤なく発明を製造・使用できるかが判断基準となります。

特許の実施可能性とは何か - 法的定義と意義

特許の実施可能性要件とは、特許法36条4項1号に規定されている要件で、明細書の発明の詳細な説明において「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものであること」を求めるものです。

 

この要件は特許制度の根幹に関わる重要な要件です。特許制度は「公開代償説」に基づいており、新規で有用な発明を世の中に公開することの代償として、一定期間の独占権である特許権を付与するという考え方が基本にあります。つまり、技術を公開する見返りに権利を与えるわけですから、その公開内容は当業者が実際に実施できる程度に十分なものでなければなりません。

 

特許法における「実施」の定義は、特許法2条3項に明確に規定されています:

  • 物の発明の場合:その物の生産、使用、譲渡等、輸出入または譲渡等の申出をする行為
  • 方法の発明の場合:その方法を使用する行為
  • 物を生産する方法の発明の場合:その方法を使用する行為および生産した物の使用、譲渡等の行為

実施可能要件を満たすためには、物の発明であれば、当業者がその物を「生産」し「使用」できる程度の記載が必要です。単に概念的な説明だけでは不十分で、具体的な製造方法や使用方法が理解できる記載が求められます。

 

特許の実施可能要件違反の効果と審査基準

実施可能要件違反があると、特許出願プロセスや特許権の行使に重大な影響を及ぼします。具体的な効果は以下の通りです:

  1. 出願段階での効果
    • 特許法49条4号に基づく拒絶理由となります
    • 審査官から拒絶理由通知が発行され、対応が必要になります
  2. 特許登録後の効果
    • 特許法113条4号に基づく特許異議申立ての理由となります(特許掲載公報発行後6か月以内)
    • 特許法123条1項4号に基づく特許無効審判の理由となります(期間制限なし)
  3. 権利行使時の効果
    • 特許法104条の3により、侵害訴訟において権利行使が制限される可能性があります
    • 被告から実施可能要件違反の抗弁が提出され、権利行使が認められないリスクがあります

実施可能要件の審査基準として重要なのは、「当業者が過度の試行錯誤なく発明を実施できるか」という点です。例えば、東京地方裁判所の判決(令和2年1月30日、「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件)では、「例えば,どのように実施するかを発見するために,当業者に期待しうる程度を超える試行錯誤や複雑高度な実験等を行う必要があるときには,当業者が実施することができる程度に発明の詳細な説明が記載されていないこととなる」と判示されています。

 

特許の実施可能性判断の具体的事例分析

実施可能要件の判断は、具体的な事例を通じて理解すると分かりやすくなります。代表的な判例として「Storer v. Clark」事件(米国連邦巡回区控訴裁判所2017年)があります。この事件では、C型肝炎治療方法に関する特許の実施可能性が争点となりました。

 

この事件では、問題となった薬剤化合物は炭素環の特定位置に「下方」位置でフッ素原子を結合させる必要がありましたが、Storerの特許出願はこれらの化合物を記載していたものの、正しい方向に化学基を有する薬剤の製造方法については明確に説明していませんでした。

 

裁判所は「In re Wands」事件で示された以下のファクターに基づいて判断を行いました:

  1. 必要な実験の量
  2. 提示された指示または指針の量
  3. 実施例の有無
  4. 発明の性質
  5. 先行技術の水準
  6. 当業者の相対的技術力
  7. 当該技術の予測可能性または予測不能性
  8. クレームの広さ

結果として、「『下方』位置にフッ化部分を有する2'-フルオロ-2'-メチルヌクレオチドを合成するには非常に多くの実験が必要であり、当該分野で追加の正式な訓練を受けたトップクラスの複数の専門家との協議も含めて、当業者による少なくとも2年に及ぶ優先度の高い実験を必要とする」と判断され、このような実験の量は明らかに過度であるため、Storer出願は実施可能ではないとされました。

 

日本でも同様の判断基準が適用されており、例えば東京地裁の「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件では、特許発明が前提とする自然現象(熱気流が三角形状に収束するという現象)が実際には生じないため、当業者が発明の構成を特定できないとして実施可能要件違反が認められました。

 

特許の実施可能性を満たす明細書作成のポイント

実施可能要件を満たす明細書を作成するためには、以下のポイントに注意する必要があります:

  1. 発明の技術的意義の明確化
    • 特許法施行規則24条の2に基づき、発明が解決しようとする課題とその解決手段を明確に記載する
    • 当業者が発明の技術上の意義を理解するために必要な事項を漏れなく記載する
  2. 具体的な実施形態の記載
    • 少なくとも1つの具体的な実施形態(実施例)を詳細に記載する
    • 物の発明の場合は、その物の製造方法と使用方法を具体的に説明する
    • 方法の発明の場合は、その方法の具体的な実施手順を説明する
  3. 実験データの適切な記載
    • 発明の効果を裏付ける実験データを可能な限り記載する
    • データは再現可能な形で記載し、実験条件や測定方法も明記する
  4. 当業者の知識レベルを考慮
    • 明細書作成時点での当業者の知識レベルを適切に見積もる
    • 技術常識と言えない事項については詳細に説明する
  5. 広いクレームに対する裏付け
    • 広い権利範囲を請求する場合は、その範囲全体をカバーする十分な説明を提供する
    • 実施例から離れた範囲まで権利化する場合は、その範囲でも実施可能であることを示す説明を加える

特に化学・バイオテクノロジー分野では、予測可能性が低いため、より詳細な記載が求められる傾向にあります。例えば、新規化合物の合成方法については、反応条件(温度、時間、溶媒、触媒など)を具体的に記載し、収率や純度などのデータも示すことが望ましいでしょう。

 

実施可能要件違反を認めた事案の詳細解説

特許の実施可能性と優先権主張の関係性

特許出願において優先権を主張する場合、実施可能要件は非常に重要な役割を果たします。優先権主張とは、先の出願(基礎出願)の内容に基づいて、一定期間内に行われた後の出願に対して、基礎出願の出願日に遡って新規性等を判断する制度です。

 

しかし、優先権の効果が認められるためには、後の出願で権利化しようとする発明が、基礎出願の明細書等に実施可能に記載されていることが必要です。この点について、以下のような重要な関係性があります:

  1. 優先権主張の可否判断
    • 基礎出願の明細書が実施可能要件を満たしていない場合、その部分については優先権が認められません
    • 結果として、基礎出願日ではなく、後の出願日が新規性・進歩性の判断基準日となります
  2. 部分優先の問題
    • 基礎出願後に実施例を追加した場合、追加部分については優先権が認められない「部分優先」の状態になります
    • この場合、基礎出願と後の出願の間に公開された先行技術が新規性・進歩性判断の対象となります
  3. 拡大された範囲の先願との関係
    • 優先権が認められない部分については、基礎出願と後の出願の間に出願された他者の特許出願に基づく「拡大された範囲の先願」の拒絶理由が通知されるリスクがあります

実際の例として、基礎出願では特定の実施例のみを記載していたが、後の出願ではより広い概念で権利化を試みる場合、その広い概念全体が基礎出願で実施可能に記載されていなければ、優先権は部分的にしか認められません。

 

特に医薬・バイオテクノロジー分野では、基礎出願時に限られたデータしか得られていないケースが多く、後の出願で権利範囲を拡大する際に優先権が認められないリスクが高くなります。このため、基礎出願の段階から可能な限り広い範囲をカバーする実施可能な記載を心がけることが重要です。

 

バイオと知財の関係における実施可能性と優先権の詳細解説

特許の実施可能性における自然法則と科学的正確性の重要性

特許法において「発明」は、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」(特許法2条1項)と定義されています。この定義から、特許の実施可能性を考える上で、発明が前提とする自然法則の正確性が極めて重要であることが分かります。

 

実際の判例として、「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件(東京地裁令和2年1月30日判決)は、この点を明確に示しています。この事件では、発明が「焼肉用コンロの煙が三角形状を描いてコンロの上部で収束する」という自然法則を前提としていましたが、実際にはそのような現象は生じないことが証拠によって示されました。

 

このケースでは、発明の前提となる自然現象自体が誤っていたため、当業者が「熱気流の上部を包み込むことのできる高さ位置」という発明の構成要素を特定できず、実施可能要件を満たさないと判断されました。

 

この判例から学べる重要なポイントは以下の通りです:

  1. 科学的正確性の確保
    • 発明が前提とする自然法則や現象は、科学的に正確でなければならない
    • 誤った自然法則に基づく発明は、そもそも特許法上の「発明」に該当しない可能性がある
  2. 実験的検証の重要性
    • 発明の基礎となる現象や効果は、可能な限り実験的に検証すべき
    • 特に、一般的な技術常識と異なる現象を前提とする場合は、その現象の存在を裏付けるデータが必要
  3. 発明該当性と実施可能性の関係
    • 自然法則を誤って理解している場合、発明該当性(特許法29条)の問題として扱われることもある
    • 現在の特許実務では、このような問題は実施可能要件の中で検討されることが多い

この観点は、特に新しい現象や効果を利用した発明において重要です。例えば、新規な物理現象や生物学的メカニズムを利用した発明の場合、その現象やメカニズムが実際に存在し、再現可能であることを明細書で十分に説明する必要があります。

 

科学的に誤った前提に基づく発明は、いくら明細書の記載を充実させても実施可能にはなりません。このため、特許出願前に発明の科学的基礎を十分に検証することが、実施可能要件を満たす上で不可欠です。

 

自然現象の誤認による実施可能要件違反の判例解説