特許の実施可能性要件とは、特許法36条4項1号に規定されている要件で、明細書の発明の詳細な説明において「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものであること」を求めるものです。
この要件は特許制度の根幹に関わる重要な要件です。特許制度は「公開代償説」に基づいており、新規で有用な発明を世の中に公開することの代償として、一定期間の独占権である特許権を付与するという考え方が基本にあります。つまり、技術を公開する見返りに権利を与えるわけですから、その公開内容は当業者が実際に実施できる程度に十分なものでなければなりません。
特許法における「実施」の定義は、特許法2条3項に明確に規定されています:
実施可能要件を満たすためには、物の発明であれば、当業者がその物を「生産」し「使用」できる程度の記載が必要です。単に概念的な説明だけでは不十分で、具体的な製造方法や使用方法が理解できる記載が求められます。
実施可能要件違反があると、特許出願プロセスや特許権の行使に重大な影響を及ぼします。具体的な効果は以下の通りです:
実施可能要件の審査基準として重要なのは、「当業者が過度の試行錯誤なく発明を実施できるか」という点です。例えば、東京地方裁判所の判決(令和2年1月30日、「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件)では、「例えば,どのように実施するかを発見するために,当業者に期待しうる程度を超える試行錯誤や複雑高度な実験等を行う必要があるときには,当業者が実施することができる程度に発明の詳細な説明が記載されていないこととなる」と判示されています。
実施可能要件の判断は、具体的な事例を通じて理解すると分かりやすくなります。代表的な判例として「Storer v. Clark」事件(米国連邦巡回区控訴裁判所2017年)があります。この事件では、C型肝炎治療方法に関する特許の実施可能性が争点となりました。
この事件では、問題となった薬剤化合物は炭素環の特定位置に「下方」位置でフッ素原子を結合させる必要がありましたが、Storerの特許出願はこれらの化合物を記載していたものの、正しい方向に化学基を有する薬剤の製造方法については明確に説明していませんでした。
裁判所は「In re Wands」事件で示された以下のファクターに基づいて判断を行いました:
結果として、「『下方』位置にフッ化部分を有する2'-フルオロ-2'-メチルヌクレオチドを合成するには非常に多くの実験が必要であり、当該分野で追加の正式な訓練を受けたトップクラスの複数の専門家との協議も含めて、当業者による少なくとも2年に及ぶ優先度の高い実験を必要とする」と判断され、このような実験の量は明らかに過度であるため、Storer出願は実施可能ではないとされました。
日本でも同様の判断基準が適用されており、例えば東京地裁の「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件では、特許発明が前提とする自然現象(熱気流が三角形状に収束するという現象)が実際には生じないため、当業者が発明の構成を特定できないとして実施可能要件違反が認められました。
実施可能要件を満たす明細書を作成するためには、以下のポイントに注意する必要があります:
特に化学・バイオテクノロジー分野では、予測可能性が低いため、より詳細な記載が求められる傾向にあります。例えば、新規化合物の合成方法については、反応条件(温度、時間、溶媒、触媒など)を具体的に記載し、収率や純度などのデータも示すことが望ましいでしょう。
特許出願において優先権を主張する場合、実施可能要件は非常に重要な役割を果たします。優先権主張とは、先の出願(基礎出願)の内容に基づいて、一定期間内に行われた後の出願に対して、基礎出願の出願日に遡って新規性等を判断する制度です。
しかし、優先権の効果が認められるためには、後の出願で権利化しようとする発明が、基礎出願の明細書等に実施可能に記載されていることが必要です。この点について、以下のような重要な関係性があります:
実際の例として、基礎出願では特定の実施例のみを記載していたが、後の出願ではより広い概念で権利化を試みる場合、その広い概念全体が基礎出願で実施可能に記載されていなければ、優先権は部分的にしか認められません。
特に医薬・バイオテクノロジー分野では、基礎出願時に限られたデータしか得られていないケースが多く、後の出願で権利範囲を拡大する際に優先権が認められないリスクが高くなります。このため、基礎出願の段階から可能な限り広い範囲をカバーする実施可能な記載を心がけることが重要です。
特許法において「発明」は、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」(特許法2条1項)と定義されています。この定義から、特許の実施可能性を考える上で、発明が前提とする自然法則の正確性が極めて重要であることが分かります。
実際の判例として、「加熱調理部付きテーブル個別排気用の排気装置」事件(東京地裁令和2年1月30日判決)は、この点を明確に示しています。この事件では、発明が「焼肉用コンロの煙が三角形状を描いてコンロの上部で収束する」という自然法則を前提としていましたが、実際にはそのような現象は生じないことが証拠によって示されました。
このケースでは、発明の前提となる自然現象自体が誤っていたため、当業者が「熱気流の上部を包み込むことのできる高さ位置」という発明の構成要素を特定できず、実施可能要件を満たさないと判断されました。
この判例から学べる重要なポイントは以下の通りです:
この観点は、特に新しい現象や効果を利用した発明において重要です。例えば、新規な物理現象や生物学的メカニズムを利用した発明の場合、その現象やメカニズムが実際に存在し、再現可能であることを明細書で十分に説明する必要があります。
科学的に誤った前提に基づく発明は、いくら明細書の記載を充実させても実施可能にはなりません。このため、特許出願前に発明の科学的基礎を十分に検証することが、実施可能要件を満たす上で不可欠です。